会社概要
会社名:有限会社大澤屋
所在地:396-0025 長野県伊那市荒井3624
代表者:代表取締役 大澤重信
創 業:1948年(昭和23年)
事業内容:果実販売・洋菓子製造販売及び喫茶部
第3回 優良経営食料品等小売店全国コンクール
ご紹介
食流機構の機関誌「ofsi」に掲載されました。
(取材いただいた川島佐登子さんのホームページ「元気な小売店」でも紹介されました)
PARLOR おおさわや(有限会社大澤屋)
効率の見本をめざす果物屋
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第3回日本経済新聞社社長賞。果物とフルーツ洋菓子を扱い、フルーツパーラーを併設している。伊那市の人口6万5000人だが、商圏は伊那市全域をはじめ、上伊那郡一円に拡大している。社長は大澤太九郎氏だが、実質的な経営は重信氏夫妻に移行している。売上構成は果物60%、洋菓子35%、喫茶5%の割合。従事者数2~3人。座右の銘は『温故知新』。
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果物と果物加工とパーラーと
■じょうぶな体で仕事を楽しむ
「1年365日を倍生きている感じ。こうなったら、効率の見本ともいえる究極の店を作りたい」
大澤重信さんの1日を見た人ならば、この言葉に納得がゆくことだろう。
フルーツパーラーを併設した果物店は各地にある。果物店ならではの強みを生かしてフルーツケーキやゼリーなどの付加価値加工をする店も出てきてはいる。しかし、この両方を夫婦2人だけで手がける店は、日本中そうは見あたらない。多忙なときでもパート数名が加わる程度で乗り切ってきた。
早朝5時、店から約3kmのトラックターミナルへ果物の荷を取りに行くことから1日が始まる。取り扱う果物の9割は東京・大田市場の仲卸経由で毎日運ばれてくる。
店に戻るとすぐにフルーツケーキ作りにかかる。フレッシュな果物を用いて作るケーキは10数種類。そうこうするうちに、9時の開店時間がくると近隣の会社員が喫茶や商談がてらパーラーにやってくる。
大澤さん夫妻はカウンター内で注文されたメニューを作る合間にも、ケーキの仕込みをするといったぐあいだ。モニターテレビを設置して、客に失礼のないように配慮しているので、果物売場に客がすれば、すぐに「いらっしゃいませ」とカウンターをとびだしていく。
午後7時に閉店し、片づけを終えるとパソコンに今日のデータを入力する。そして、ようやく就寝時間が訪れる。これらの仕事を美恵子夫人のサポートを受けながらこなす。体がじょうぶだからこそ、そして仕事を楽しんでいるからこそ務まってきた。
「これだけモノがあふれてぜいたくになっている時代なのに、うちの果物やケーキを東京に送って、おいしかったからと東京から注文が来るんです」
笑顔で語る表情が本当にうれしそうだ。「おいしさ」へのこだわりが、どんなに忙しくとも、「商いのやりがい」になっているのである。
※四季を感じる店づくりを心がける。店独自のシールやリーフレットを多数作成
■味へのこだわりを培う
大沢屋は大澤太九郎さんが1948年に満州より引き揚げて開業した。いわゆる町の「よろず屋」的な商いをしていたが、果物店になったのは、長男大澤重信さんがたまたま紹介され63年4月東京の果物専門店「万惣」で修業することになったのがきっかけである。
「果物店の老舗だといわれていても、当初、果物をやるという感覚はなかった。食料品店ならばなんでもよいと思っていたんです。当時は木造の3階建てで、地下に倉庫があり、見習い番頭の1年間は果物を箱から取り出してきれいにするのが仕事でした。万惣には3年半いたけど、ほとんどが果物屋の子弟のため、独立したり、帰ってしまう。だから、本店での販売はもとより、料亭回りなど次々と仕事を覚えて、やめるときには責任者になっていました」
味に関する徹底したこだわりが培われたのは万惣時代である。当時、万惣はすべてに最高品が集まる超一流ホテルや料亭に数多く納入していた。
「当時の料理人たちは、素材を見る目が確かで、吟味がとてもきびしかったのです。彼らに満足を与える商品を提供するために、果物のことを懸命に勉強しました。それと人間関係がいかに大切であるかを学びました」
万惣の青木惣太郎現社長が語った言葉「果物は嗜好品である」「商いは動機が大切である」は、いまも商いの原点としてかみしめる。
■食べ頃のおいしい果物で加工する
大沢屋はJR飯田線伊那市駅西方に立地している。線路に並行する旧国道158号線を渡った次の交差点を右折してすぐのところにある。駅の反対側にバイパスが開通して商業環境が変化したため、旧国道158号線沿いに形成されていた商店街も地盤低下しつつある。
こうした変化を予知するというより、もともと立地はよくなかったことが大沢屋にとってはむしろ幸いだった。専門性を高めた店にしたことにより、商圏は伊那市全域をはじめ、上伊那郡一円に広がったからである。
66年6月に戻ってきたときには、店の構想はできていた。まず、よろず商いから果物専業へ徐々に切り替えていき、地元に「贈答果物ならば大沢屋」とのイメージを定着させた。
75年7月に店舗改装と同時に、喫茶部を開設。店名を「PARLOR おおさわや」にして、専門化を一層深め、包装紙や独自のシールなどの作成を始めている。
83年に都市計画に基づき店舗を新築。このときに友人の洋菓子職人が作る紅茶ケーキやオレンジケーキの扱いを始め、以後「価値ある贈り物、味と品質の保証」をモットーに、「四季の香りに魅味しさ(おいしさ)を添えて……」がキャッチフレーズになった。
続く89年の店舗改装を機に、フルーツケーキの自家製造を開始した。
パーラーを始めるにあたっては、銀行勤めだった妹を修業に出し、戻ってからパーラー部門を担当させている。彼女が結婚してやめるまでの間に、パーラー全般を教わったというのが実情だ。
「専門店にした限りは、静岡のマスクメロンが売れる店が夢でした。パーラーを始めたおかげで、マスクメロンをジュースやパフェの形で食べてもらえたから、普及も早かったと思います。パーラーは時代にさきがけたつもりで始めたのですが、三カ月ほどしてほぼ開店休業状態になったときが一番ピンチでした。でも、大げさにいうと、ここ伊那の地で、嗜好品としての果物の文化を育てたいという思いがありましたから、やめるわけにはいかなかったんです。やめなくて本当によかった。
グレープフルーツが入り始めた頃、料亭で半分に切って出されたグレープにソースをかけている人を見ました。このときに、おいしい食べ方を教えてあげるのも果物屋の責任だなと痛感していたので、ピンチのときでも自分の努力が足りないのだと踏ん張れたと思います」
当初は売場で熟度の過ぎてしまったもの、売れ残ったものを処理する有効手段としてパーラーを考えていたが、パーラーの客向けにも、食べ頃の果実で最高のおいしさを提供しようと考えを切り替えて、徐々に客足が増えてきた。
パーラーでは店売りの果物を使用していて、加工用としては仕入れていない。店舗で食べ頃になったものを加工に回すと、初めから加工用として仕入れたものよりも、原価計算すると高くつくが、美味にこだわれば、おいしい果物で加工品を作るのも当然と考えている。
日本では、果物を追熟させて食べ頃を待つという習慣がなかなか定着せず、食べたいその日に買うという客が多い。だから、メロン、パパイヤ、マンゴー、キーウィ、洋ナシなどは追熟の見極めが難しいだけに、プロの腕の見せ所とする果物店が多い。これらの果物は追熟品で仕入れるとリスクが大きいだけに、未熟で仕入れて完熟する数日の間に販売するという販売が定着している。
しかし、大澤屋ではこうした追熟を要する果物でも、食べ頃のものを送ってもらうようにしている。果物売場で一両日中に食べ頃として販売し、熟度が回れば惜しげもなく加工してしまう。パーラーで味わっておいしければ、帰りに果物やフルーツケーキとして購入するケースも多いからである。だから、メロンの販売が好調であれば、メロンケーキの作り置きは必然的に少なくなる。
■パーラーや加工品はアンテナショップの役割
果物売場ではキワノやスターフルーツといった新しいトロピカルフルーツは、珍しくて値段が高いだけに売りにくい。しかし、売れる売れないにかかわらず、日本に入っている果物は並べておきたいと考えるので、フルーツサラダの彩りやフルーツケーキにさりげなくあしらってみる。新しいもの、珍しいものが1個600円で丸ごとで買うのは勇気はいるが、デコレーションされていれば、味見気分で買って食べてみようとか、贈ってみようと考える。
出始めや旬の果物もパーラーやフルーツケーキを通じて味を知ってもらえば、それなりの果物の購入につながる。いわば、アンテナショップとしての役目を果たしているのである。
果物に感じているロマンを伝えたいとメニューも工夫した。チョコレートパフェがチョコラガーデン、プリンアラモードがファンタスチックプリン、フルーツパフェはフルーツロイヤルといったぐあいに呼び名を変えている。果物をふんだんに使ったオリジナルのメニューだと考えているからである。
「パーラーを始めた頃は高校生が大勢きてくれましたが、いまの高校生はファーストフードやコンビニ店へ行って立ち食いですませてしまうようになりました。旧態然とした喫茶店やパーラーがやめざるをえなかったのもこの影響が大きい。うちはいい時期に果物の加工を始めたと思います。
メロンを見舞いに1個もらっても切らねばならないでしょう。でも切ってあればすぐ食べられるのがいいというのでフルーツデザートが売れるんです」
もともとはプリンをデコレーションすればケーキになるぐらいの軽い発想で始めた。
台になるスポンジケーキはケーキ店から仕入れ、デコレーションを果物で工夫している。パパイヤやパイナップルの上に各種フルーツをのせて、果物店ならではのケーキを作っている。定番の人気商品になったマンゴーケーキのほか、季節によってイチゴ、洋ナシ、カキなどを用いたオリジナルケーキを作る。スライスして飾りに用いる以外にはなさそうなモモでさえ、半分に切って生クリームを入れてデコレーションすると売れるという。
果物販売とパーラーとフルーツケーキが相乗効果をもたらしつつ、バランスを保っている。それが現在の経営ともいえる。
※フルーツをあしらったケーキは新しい果実、珍しい果実のアンテナショップ的役割。
■新たな挑戦で新たな可能性を見出す
できないと思ってもとにかく始めてみること、そうすることで自分の中にある潜在能力を発見することができる、大澤さんはホテルのウェディングケーキを最初に手がけたときのことを振り返ると、そう思わずにはいられない。
95年秋のこと、結婚式の引き出物にケーキを納入していた関係で、ウェディング用の生のケーキを作ってくれと降ってわいたような注文を受けた。もともとは果物が本職であり、フルーツケーキも見ようみまねで覚えたもの、作り方もデザインもわからない。このときは寝込んでしまうくらい悩んだ。しかし、なんとか作ってみると好評だったために、また同じスタイルのものをと注文を受けるようになった。この頃はオリジナルウェディングケーキの注文に合わせて、客とイメージを打ち合わせながら作るまでになっている。
「慣れると速く、きれいにできるようになるものなのですね」と述懐するが、ウェディングケーキや引き出物の納品については数カ月先の予定まで決まっているために、体をこわしては迷惑をかけると健康維持を第一にしている。
美味にこだわる
■大型店のやらない、やれないことをする
「いまの時代にパーラーで利益を上げるのは難しい。将来的には果物とフルーツケーキに期待しています。果物はいいものと悪いものがはっきりしているだけに、専門店として勝ち目が出てくると思います。
量を売る時代は過ぎました。大型店と小売店の勝負はとっくについてしまっていて、2年前くらいから大型店同士の争いになっています。ですから、小さな店でいま生き残っている店はこれからも残っていくと思います。私も多店舗展開などは考えず、本店だけに絞って質の高い経営をして行きたい。
専門店は大型店のやらないことをする必要がありますが、大型店を意識してはいけないっていつも言っています。うちのフルーツケーキをこの値段で作ろうと思えば大型店には手間がかかりすぎてとても割が合わない。ですから、自分はこのスタンスでいくのだと決めたら、後は商いの基本をきちんとしていけばだいじょうぶだと思う。
それと販売は、一種独特の努力というか、ハングリーさが必要なんですね。だから、よそを見学してうちもやってみようとまねから入るのはいいのですが、自分の店をこうしたいという確固たる目標をもって、それに向けて邁進するには、精神のハングリーさが大切だと実感しています」
いい果物を販売しさえすれば専門店は残ると言い切る大澤さんも一抹の不安を感じるときがある。それは、近年顕著になりつつある生産者の後継者不足である。この点についても、大型店同士の争いによる価格破壊が生産者の意欲をなくしてしまった一因とみている。
「農産物は1年かけて作るのだから、大量に買うからまけろという商売はなりたたない。1000円かかったものをたくさん買うから500円で売れということではばかばかしくてやめてしまいますよね。
自分の商売だけが儲かればいいという姿勢では、どこかにひずみが出て損をする人が出る。それを誰が負担するのか。生産者か、中間業者か、小売業者か。その意味で、適正利益は必要であり、どこかで無理な経営をしている大型店は破綻をきたすとみてきました」
大型店より価格は高いかもしれない。だが、品質はどこにも負けないし、適正価格で仕入れ、販売することで、産地を支援することにもなっていると自負している。
■市場を活用する
大田市場からの仕入れが9割。毎朝トラックターミナルに届くが、総量が多いので、輸送経費は1箱当たりに換算すると安い。残り1割は地元の松川農業協同組合経由の産直品である。
ふじリンゴは最高級品の評価を受けている長野県安曇野産のものを扱っているが、やはり大田市場経由で仕入れている。「先だって大田市場を訪れたとき、東京の有名な専門店でもあれだけいい品質のものをあれだけ多量に売る店はない、一体安曇野のリンゴはどこにいくのかと評判になっているといわれ、自信をもって戻ってきました」とうれしそうだ。
安曇野のリンゴ、松川農協のサンふじと二十世紀梨、それに春日居のモモ、洋ナシのル・レクチェは贈答品として絶対の自信をもつ商品だ。
だが、どんなに量を多く扱っていても、長年の絆がある松川農協以外は産直で仕入れない。以前は篤農家との取引もしていたが、よいものだけほしい、だめなものは不要というシビアさを貫くのが難しくてやめてしまった。
その点、市場仕入れだといいものだけを仕入れることが可能である。品物の責任は卸売会社や仲卸がもってくれるので、安心して商売に励むことができる。
市場の存在価値を高く評価する大澤さんは、近年増えてきている生産者の産直にも疑問を投げかける。生産者個々が産直に走ってしまうと低級品だけ農協に出すような自体になってきて、決して産地全体の発展にはつながらないと見ているのである。
だから、きちんと選果して市場に出荷するというと断固たる姿勢がある農協は生き残っていけるとみている。こうしたいい生産者、農協を見分ける目をもつことが専門店にはますます要求されてくるという。
■パソコン顧客管理に活用し、省力化を図る
多忙な中でも取り組んでいるのはパソコンである。「忙しいからするひまがない」「人手がない」「小規模だから必要ない」はよく聞く言い訳である。しかし、そういう人たちにとってこそパソコンは役立つと、大澤さんは自らの利用方法を話す。
パソコン(リコーのマイツール)は89年に導入して、顧客管理で十分威力を発揮している。
贈答の注文を受けた届け先名、住所、氏名、電話番号等がすべてデータとして入力されているので、データから宅配便の伝票を即座にプリントアウトできる仕組みである。季節商品をDMで出し、顧客数も全国に約1000名と広がっている。中にはクリスマスケーキを毎年注文してくる客もいる。このほか、財務管理もしているので、たえず売上動向と見合わせながら、販売計画を練ることができるのが強みだという。
ここ数年は景気が低迷しているにもかかわらず、大澤屋では数%ずつ伸びてきた。贈答とフルーツケーキの伸びが貢献している。
また、商売はお金をもらって初めて客であり、支払い条件が悪くなると次の商売ができないことから、どんな客にもすべて現金売りでお願いしている。自身の信条も「問屋への支払いはきれいにすること」であり、銀行に借金しても、問屋への支払いがきちんとできなくなったときには商売はやめようと決意している。
※テーブルの花は生花。くつろぎ空間提供のため、12歳以下の子供は遠慮願っている。
■情報交換の場としてゲストハウスを建設
店は、四季を感じてもらえることを第一とし、明るく整然として、客が入ってきやすい店づくりを心がけている。果樹園をイメージして売場にもパーラーにも観葉植物をあちこちに置き雰囲気を作っている。果物、ケーキ、パーラーを少人数で行うため、作業動線も工夫されている。それに、「お客様が来店されたとき、楽しいなと思ってもらえる接客」が加われば、現段階ではほぼ完成の域に達している。
しかし、これはあくまでも夫妻が健康に働き続けられてこそという条件がつく。今後、コンスタントに人を雇用したうえでどう展開していくかが課題になってくるだろう。
できればフラワーショップを併設したい、という将来プランがあっても、いかんせん現在の陣容だとままならない。40代ならばもっと前向きかもしれないが、50代に入って急に疲れも出てきたともいう。だが、もうひとふんばりを期待したい。
いま大沢屋ブランドとして販売しているオリジナル商品の中には、全国の果物店に「果物店ならではの商材」として提供できそうなもの、あるいはデパートで地元のおみやげ品として提供できそうな「前途有望」な商品が見受けられる。現にオレンジの皮をココアパウダーでコーティングした菓子は、バレンタインやホワイトデーで人気が高いし、その存在を知った他県の果物店から注文が入るほどである。まだまだ可能性は残されている。
とはいえ、これから先の夢は、現在東京でデザインを勉強している長男が果たしてくれるかもしれないし、そうでなくともいいと考えている。自分も好きな道を歩み、幸せなので、長男も好きにしてほしい。願わくは自分たち夫婦の姿をみて継ぐ気になってくれたらと期待しているのである。
96年10月、南アルプス山麓に33㎡のゲストハウスを建てた。生産者や、見学に来てくれる同業者、仕入れを担当してくれている仲卸業者など市場関係者が伊那を訪問してくれたとき、ここに泊まってもらっていろいろ語り合えたらという思いで建てたものだ。こだわりの店として愛され、伊那市にいながらにして、多くの人とふれあいたい。ささやかな願いがいま実を結ぼうとしている。
繁盛店のノウハウ
☆フルーツは市場主体に品質重視の品揃え
☆パーラーをアンテナショップに活用
☆フルーツケーキで付加価値付け
☆作業動線を工夫して効率的経営
☆顧客管理、経営管理にパソコンをフル活用
☆情報交換で語らう場所づくり
(著:川島佐登子 1997年)